
1978年10月2日に起こった「シド急逝事件」についての、オドロキの真相が最近わかりました。
彼の死後数十年を経て公開された新事実をご紹介します。
シドの死は実は第三者によって仕組まれた死で、その人物は思いもよらない人だったんです。
数十年を経て公開された衝撃の事実!
シドの死後30年近くも経ってから公開された。母親による「衝撃の告白」が公開されています。
これまでに広く知られていたシド・ヴィシャスの死は、自ら打ったヘロインのオーバードースによるものとされていました。
しかし。今回知った驚愕の事実はシド自らが行った行為で自分の命を絶ったわけではなく、第三者のある意図によって仕組まれたことだったんです。
しかも、その第三者というのは「シドの実母」というんだから二度びっくり!です。
さらに深堀りしていくとシドが育った異常な家庭環境とその母親との歪んだ親子愛が浮き彫りになるのでした。
あ、でも近〇相〇みたいなのとは違いますよ^^;
マザコンといった方がいいかと思います。
シドの母親アンが死の直前にあるジャーナリストに語ったという、驚愕の真相について書いてみます。
理解困難なシドの母親「アン・リッチー」の人物像
このことを語る前にまず最初に知っておかねばならないのは、シドの母親であるアン・リッチーについてです。
今まで彼女についての記述や報道は目にしたことがなかったんですが、今回初めて彼女のことを知ったら驚愕の連続でした。
なぜってあまりにも常軌を逸した感覚の持ち主で、書かねばならないことが多すぎだからです。
ちなみにシドの本名は「サイモン・ジョン・リッチー」で、シド・ヴィシャスは音楽活動を始めてからのステージネームです。
狂暴なイメージが強いシドですが、実際はシャイでおとなしく「子供のように純真ないい奴だった」と関係者の多くが語っています。
ジャンキーな母が注射器を使うのを見て育ったシド
アンは若い頃に軍隊にいた頃にシドの父親と知り合いシドを出産します。
が、シドが2歳のになった頃に夫とは別れてしまいます(というか、捨てられたといった方が)。
その後はシングルマザーとしていろいろな職を転々としながらシドを育て上げたという苦労人ではあるものの、もうひとつの顔も持っていました。
それは、シドが7歳になる頃までには彼女は重度のヘロイン・ジャンキーになっていて、同時にドープ(マリファナやおクスリ)の売人もやっていたことです。
そういうわけで、シドは子供の頃から母親が目の前で注射器を腕に打つのを見て育つことになります。
しかもアンは、ときにはシドにドラッグの「実験」を勧めていたともいいます。
幼少期に育ったこの環境が、その後のシドの人生に深く影響したことは否めませんよね~・・・
アンの異常なまでのシドへの愛情と執着
上に書いたようにアンはどうしようもないジャンキー母でもありましたが、同時にシドを溺愛していて異常なまでの執着を持っていました。
こんな母に育てられたシドは、成人するまでには重度のマザコン・母親依存症になっていました。
そしてこのことが後に起こる悲劇を生む、おおもとのきっかけにもなっていきます。
後に登場するナンシー・スパンジェンとの関係もこれに等しいものでしたが、彼女は「破壊の女神」とでも形容したくなるような支離滅裂な女性です。
ナンシーはシドよりも少し年下でしたが、彼をジャンキーに変えてしまったのみならず、セックス・ピストルズを崩壊へ導く原因を作った張本人でもありました。
親子でヘロインのオーバードースで死んでるとは・・・
アンはシドの死後20年近く経った1996年に63歳で亡くなりましたが、その原因が息子と同じくヘロインのオーバードースとは・・・驚愕としか言えません。
しかも60過ぎてヘロインなんて・・・その歳まで長生きできたのも驚異です。
その死の直前に彼女があるジャーナリストに告白した「シドの死の隠された事実」が、アメリカの「The Final 24」というTV番組で公開されています。

アン・リッチーのスクリーンショット。
(英語ですが、動画リンクは最後の段落にあります)
シドは母親に殺された?! 異常すぎる道徳観念と歪んだ母性愛
動画を観て彼女の異常とも言える常識感覚とシドに対する愛情は十分にわかりましたが、最終的に彼女がシドに対して下した決断には「歪んだ愛情」としか言えないものを感じます。
1978年10月2日にニューヨークで起こした「ナンシー・スパンジェン殺害容疑」で一度は警察に拘束されたシドでしたが、有能な弁護士と破格の保釈金によって条件付きで釈放されます。
解放されたシドを出迎えると、まず最初にアンがやったことはヤク切れになって喘いでいる愛する息子のためにヘロインを買いに走ることでした。
これだけでも異常な母子関係がわかるってもんですが、驚愕の事実はさらに続きます。
苦しむ息子を救うためアンが取った驚くべき行動
ナンシー亡き後のシドは心の支えを失い、自暴自棄になって自傷事件や自殺未遂を起こすようになります。
そんな中で1979年2月1日(死亡前日)に行われた友人宅での出所祝いパーティ中に不幸が起こります。
その日の深夜、自分で打ったヘロインが強すぎたために、シドは急性ヘロイン中毒に陥りその後数時間苦しみ続けることになります。
シドは麻薬更生施設に再び送られることを極度に恐れていて、頑なに治療を拒否し続けます。
こうして暴れたりむずかったりして手に負えなくなっていく息子を見るにつれ、アン自らが戸惑いながらもシドに致死量のヘロインを打つ決心をします。
恐る恐る息子の腕に注射針を刺すアンと、横たわったままうれしそうに安堵の表情を浮かべるシド・・・
その後は時間とともにシドの意識もなくなっていき、ついには死に至ります。
泣く子も黙る「パンクのレジェンド」シド・ヴィシャスはこうして人生を終えることになったのでした。
本当のところの母の気持ちは謎のまま(動画リンクあり)
これが息子を楽にさせるためにやったのか、それともクスリを欲して手に負えなくなるシドを静かにさせるためにやったのかについては動画の中でははっきり描かれていません。
しかし、後にアンの秘密の告白を受けたジャーナリストによると「息子がこれ以上苦しまずに楽にしてやるための思いやりからだった」とのことでした。
この告白によって明らかになったのは「母親によるシド安楽死」の事実でした。
自ら打ったヘロインで壮絶な死を遂げたことになっているパンクのレジェンドが、実は母親によって人生を終わらせていたなんて、今までの伝説が覆ってしまいそうですね。
今回紹介した動画
下が「The Final 24」のSidの死までを検証・再現した動画です。
生前のシドの映像とともにマルコム・マクラーレンとかグレン・マトロックといったピストルズ関係者のインタビューも多く出てきます。
海外の番組なので英語で字幕はありませんが、レアな情報がたくさん出てくるのでファンにはおすすめです。
ちなみにジョン・ライドンは出演してません。
【補足】永遠の「シドとナンシー」
前半でちょっと名前を出しましたが、シドを語るときに絶対に忘れてはいけないのが殺された元ガールフレンドのナンシー・スパンジェンです。
彼女については一記事書けるほどの曰く付きの女性でもあるんですが、母親の次にシドを支配して良くも悪くも多大なる影響を与えた女性です。
2人については「シドとナンシー」という映画にもなっているので、知ってる人も多いことでしょう。
今回の動画の中でもナンシーについて割かれている時間はけっこう長いです。

ナンシーは当時のピストルズの人気にあやかろうとロンドンにやってきたアメリカ人のグルーピーでお世辞にも美しいとかカワイイとは言えないタイプですが、シドにとっては運命の女神になりました。
しかも最初に狙っていたジョン・ライドンに冷たくあしらわれたために、女性には奥手だったシドに鞍替えしただけという・・・なんて尻軽・・・^^;
母親にべったりと依存する体質に育て上げられていたシドでしたが、今度はナンシーがそれにとって代わります。
さらに悪いことに、14歳の頃からヘロインをやっていたというナンシーの影響でシドは重度のジャンキーになっていきます。
こう見るとナンシーは「不幸の女神」としか思えないのですが、実際2人はお互い強く惹かれ合っていて運命共同体とも思える絆の強さを感じさせるのでした。
ナンシーがピストルズを崩壊させた
シドとは固い絆で結ばれていたナンシーでしたが、当時のピストルズのメンバーをはじめとする関係者たちからは疫病神のように嫌われていたことがわかりました。
ナンシーと出会って数カ月後にはヘロインを毎日打つほどのジャンキーになってしまったシドが、バンド活動にも支障をきたすようになったことがその最大の理由です。
ナンシーがシドをジャンキーにしたことがピストルズを崩壊へと導いた。
元マネージャー マルコム・マクラーレン
何度かシドからナンシーを遠ざける試みも行われますが、いずれも失敗に終わります。
そんなわけで、彼女のことをよく言ってる人はほぼ一人もいませんでした。
迷宮入りとなった「ナンシー殺人事件」とピストルズのその後
ナンシー殺人事件はシドの死によって捜査続行不能となり打ち切られることになります。
「一緒に葬られたい」という、シドの希望も叶うことはありませんでした。
ところで、どういうわけかワタシはナンシーの母親が書いた「And I Don’t Want to Live This Life」という、ふたりについての回顧録を綴った本を持っています。
ナンシーはシドと違い恵まれた環境で育ったものの、10代の頃には家庭崩壊させるほどの非行を繰り返し、その後はストリッパー、売春婦、グルーピーという「転落の王道?」を辿ることになります。
ナンシーの方がシドよりもはるかに「パンクな人生」を地で生きたのではないかという印象すら持つほどです。
セックス・ピストルズは1978年に一度解散しますが、96年に再結成されて以降は断続的に活動を続けます。
2008年には日本のロックフェス参加のため来日しますが、それ以降は活動を停止しています。
【まとめ】実は「母親によるヘロインの安楽死」だった
シド・ヴィシャスの死後30年近く経ってから、母親によって明かされたという彼の死の真相について紹介しました。
これまでは「自ら打ったヘロインのオーバードーズ」で亡くなったのが通説でしたが、実は母親による「安楽死」という衝撃の事実がわかりました。
その母親アン・リッチーも1996年にヘロインのオーバードーズで亡くなっていますが、その死の直前にジャーナリストに息子の死の真実について秘密の告白をしていました。
そのジャーナリストの承諾を得たうえで制作されたのが、今回ご紹介した動画です。
「The Final 24, Sid Vicious 」(Youtube動画、英語)
当時ナンシー・スパンジェンが、ピストルズ関係者みんなから毛嫌いされていたことにも触れられています。

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この記事を書いた人 Wrote this article
とりぞう
昭和のバブル時代を満喫したBBAです。オトコのような名前ですが、女です。LGBTとも関係ありませんw。 趣味の音楽のことや最近凝ってる「自家製健康酒づくり」etc、「ろぶりーと」はとりぞうが気ままに綴る雑記ブログです。